2013年 07月 19日
行くぜ東北!三陸の「いま」と県北バスを訪ね視て(1日目・「ビーム1」は三陸を目指して) 行くぜ東北!三陸の「いま」と県北バスを訪ね視て(2日目その1・朝の宮古駅前の表情とバス観察) 行くぜ東北!三陸の「いま」と県北バスを訪ね視て(2日目その2・重茂半島への路、大津波の傷跡と共に) 行くぜ東北!三陸の「いま」と県北バスを訪ね視て(2日目その3・県北バス重茂車庫を視る!) 重茂車庫から宮古駅前まで往路と同じくのブルリで戻り、次なる目的地である県北バス山田支所へのバス便を待ちます。コース面だけで考えますと、重茂車庫からであればR45に合流した川帳場あたりで乗り換えればよさそうなものですし、そのほうが明らかに運賃もかからないのですが、その川帳場でのインターバルは小一時間あり、天候も不順ですので運賃の嵩みを承知のうえで、宮古駅前まで戻ったわけです。 宮古駅前のでインターバルは30分少々・・・土産物屋や柵越しにJR駅構内を覗いたりして時を待ちます。その乗り継ぎ便である11:57分発船越駅前行は、盛岡駅からの急行便である「106急行」の船越駅前直通便。車両もリクライニングシート装備ですが、特別料金の類は必要なく、宮古駅前からも乗車可能です。因みに今回の県北バス乗車については¥5000の県北バスカード(¥5700利用可)を全面的に使用し、運賃支払い時の両替等の煩雑さの解消に努めています。旅客には求められるべき事ではありませんが、これによるスムースな乗降から定時運行確保の一助となる面もありますから、「バスファン」であればせいぜい心がけておきたいものです。2日間で¥5000券2枚を2人でほぼ使い切っていますので、その点でも有用でした。 106急行流れの船越駅前行は盛岡方面からの旅客の大半を降ろした後、バスロータリへと入り宮古駅前からの地元の旅客の乗車扱いをします。車内は前述の通りリクライニングシート装備であり、地方のバスに見られるような貸切格下車の雰囲気・・・なんて言ったら怒られますねw これはれっきとした現役の急行バスですから。因みに宮古駅前から船越駅前までも急行扱いですので、停車停留所は限られますから降車停留所には要注意です。 本日2度目のR45南下ですが、車内環境の良さもあり睡眠不足からウトウト・・・気が付けば海が見えていました。山田湾です。遠方には養殖のイカダも見え漁業再興が見てとれますが、他方、大津波の生々しい傷跡の大半は残されたままです。 何も知らなければ、そこに何があったかも判り得ません。それがまさに私と山田町の接点であるわけですが、船越駅前行のバスの車窓に映る雨の山田町は、建物の基礎ばかりが残り、あてどなくなった街路が張り巡らされたままという、街並みの「カタチ」が感じられないものでした。ですから、私がここに山田町の街並みがあり、住宅や商店がR45沿いに居並んでいた様を想像することは、不可能です。 山田町中心部の南外れに位置する山田郵便局前でバスを降り、そこから望んだ市街地があったであろうエリアは、不自然なぐらいにサッパリしてしまっています。ここ山田町の中心部は、多分に漏れず先の大津波により被災したわけですが、特にそのダメージを大きくしたのは海中漂流の燃料への引火により、各所で火の手が上がった事です。JR山田線陸中山田駅も炎に包まれ、その街並みは津波に呑まれ、壊され、焼き尽くされたのです。 被災地に暮らす方々は兎も角、外野というのは得てして「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の傾向が強く、震災直後のメディアしかりで、表向きだけでも存在した3・11シンパシーは、今や日常で触れられる事は殆どありません。他方、今回の旅行において目にした地方紙では、復興如何に関わる記事が多分に扱われている事実。この温度差は5年、10年とたてばますます広がり、それこそ大震災を知らない世代も当然のように生まれてくるわけです。 だからこそ私は、この「2年後」という、言うなれば最も忘れられやすいと私的に感じる時期に、自身の目を通じて視て、感じ、弊ブログという媒体を行使し広く発信したいと考えました。大口の支援や人手、募金も必要でしょう。出来る事は限定的ですが、私はその中でもバス趣味を通じてであれ、このような「情報発信」に途を見出しました。よそ者が被災者の立場に立つ事は出来ません。ただ、それを知ろうとする事は可能です。 三陸沿岸数百キロ、そのあまりにもあまりにも膨大な被害を受けた地区にあって、今回の山田町や宮古市に焦点を絞り訪問先としたのは、宮古市は前回訪問が23年前であり記憶も殆ど無く、山田町に至っては未訪問という実情があったからです。それが10年前に訪れた陸前高田や大船渡であったならば、感情論に流され悲嘆に暮れ、語弊を承知で言えば「まとも」な情報は何一つ発信出来なかった事でしょう。 山田郵便局前からは徒歩で山田支所を目指します。手許には10年前に刊行された旺文社のエリアマップ、そこに現在の移転後の山田支所をマーキングしてあり、目標地点を探りながら進みます。上記の図で説明しますと、まず私達は地図上方からR45を南下し、青丸の「細浦バス停」手前で右折し、赤色のラインマーカーのコースで山田支所へと向かいました。この途上にある織笠第12地割地区ですが、かつては家屋が立ち並び、そしてこのラインマーカーのコースに田子の木線のバスが通っていました。しかし先の大津波で界隈は壊滅し、現在家屋は全く見られず、バスも新設道路(希望ヶ丘バス停のあるコース)へと経路を変えています。 この図を見る限りでは細浦バス停で降りればよさそうなものですが、ここまで乗車してきた106急行流の船越駅前行は細浦には停車しません。且つ山田支所最寄りとなる希望ヶ丘バス停も、その田子の木線の運行本数が少なく、これをアテにするとタイムロスとなります。もっと言うと品川BTから乗車した「ビーム1」は山田支所を経由しますから、それが確実と言えば確実。しかし山田支所を先に回ると、重茂車庫への時間配分は非常に悪くなる(宮古で1時間待ち、重茂で2時間待ちとなり1日を棒に振る)ので、苦肉と言えば苦肉ですが、結果的に山田郵便局前からの徒歩によるアクセスとなったのです。 山田支所への道すがら、JR山田線がオーバーパスするポイントがありました。コンクリートガードが残っていて、上に上がってみようかとも思いましたが時間の限りもあり、先に進む事としました。 果たして歩くこと約20分、県北バス山田支所に到着しました。画像奥にコンクリートミキサー車が見えますが、ここ山田支所はそのミキサー車の拠点施設を間借りするような恰好で構えています。山田支所は旧来から此処に所在したわけではなく、かつては船越駅近くに構えていたのが先の大津波で被災し、現在地の高台へと移転したという経緯があるのです 車両の洗浄に際してはその施設に乗り入れ、本来ならドロ落としに供するような高圧洗浄機で行っています。県北バスは手厚い助成により、被災地のインフラとして安定的機能を果たせるようになされていますが、このように(投資を)抑えるべきところは抑えられているようです。 営業所建屋を北側から・・・。右隣には宮古駅前で今朝目撃した、大阪市営バス鶴町営業所出自のブルリが駐機しています。この後同車は、山田管内系統に運用される姿を見たので山田所属を疑いましたが、宮古所属車の広域運用と考えられなくはありません(山田支所自体が小規模で、所属車両も限られるので)。 やはり営業所建屋を南側(バイパス側)から。手前に見える「東京直行バス・ビーム1」の広告看板の通り、宮古発着であった「ビーム1」は現在は宮古から山田支所・道の駅やまだまで延伸されており、ニーズの喚起に努めています。山田町で実施した公共交通アンケートでも東京行バス延伸の希望が見られたので、その反映とも言えましょう。 敷地内には数台の車両の駐機のほか、昨夜に品川BTを発った「ビーム1」の2号車である京急バスが休んでいました。手前の島田茶のラッピングバスはまるで県交通と見まごうようなビジュアルで、インパクトがあります。県交通とは道の駅やまだ~船越駅前付近で路線が競合していますが、バス便も限られますから誤乗云々といった沙汰にはならないようです。 山田支所については敷地外からその全貌が見渡せたので、立ち入り許可を特に求める事もなくひとしきり見学を終えました。戻りは往路とは異なり新設道路でR45へと下って行きますが、その途上で田子の木行のチョロQと離合しました。 新設道路から、織笠第12地割地区越しにR45を望みます。僅かに残る基礎や、今となっては使途を喪ってしまった生活道路が大津波の傷跡を伝えています。ガレキが消えればただの街並み・・・では、決してないのです。 新設道路はJR山田線をオーバーパスしています。その釜石方を見やれば、線路が残りトンネルが口を開けています。大津波被害を受けた箇所については線路が撤去されていますが、そうでない箇所もあるようです。 要注意箇所を示す「S」の標識が物悲しい。トンネルは一応バリケード措置がとられているようです。 対する宮古方は・・・僅かに手前に線路があるのがお判りいただけましょうか。その先の大津波による被災部は、すっかり剥がされてしまっています。 新設道路をさらに下ると、往路でアンダーパスしたJR山田線のコンクリートガードが見えてきました。語弊を承知で言えば、路盤を喪われたその様は廃線跡そのもの。しかし地元山田町はもとより沿線自治体における鉄道復活の要望は極めて強く、震災直後のJR東日本による「必ず全線復活させる」という法人レベルでの発言が決して一時的なプロパガンダに終わる事なく、何年かかるとも知れない復興と未来への大きな足掛かりとして、再びこの地に鉄路の蘇らん事を私自身も強く希望します。 とは言えども、おいおい触れる三陸鉄道のように自力再興が到底不能であるが故、ほぼ国持ちでその費用が賄われるのと異なり、JR東日本自体は大資本ですからその例に当て嵌まりません。なのでJR東日本が「儲からないから」といって三陸沿岸部の路線を全て放棄する事も、決して可能性がゼロというわけではないのです。むしろ、BRT化された気仙沼線はある意味マシなのかも知れません。山田線では市町村単位でBRT化に反対している背景や、旅客サイドからの「バスは混むし、時間がかかる」といった意見もあり、路線再興の動きは止まったままです。 もしと思うのですが、仮にJR東日本がBRT化されていない沿岸部路線について維持して行く意向を捨てるのであれば、第三セクター化により再興させるという選択肢も無くは無い筈です。かつて国鉄が、開業から10年そこいらしか経っていない路線を、延伸に向けて膨大な費用を注ぎ込んできた建設途上の未成線とセットで放棄するという方針を打ち出したのに対し、ならば後は自分たちで!と、未成線をも開業に漕ぎ着け「三陸鉄道」として生まれ変わらせたのは、他ならぬ沿岸部の人達ではなかったか。当時とは経済情勢も違いますし、キロあたりで算出される転換交付金などの財源も無いでしょうが、それが「鉄路を鉄路として」生き残らせる最後の手段であると私は思います。 新設道路を下りきった箇所には、小奇麗な口ーソンが店を構えていました。そういえば昼食を摂っていないのを思い出し、簡単な惣菜を腹に入れます。宮古駅前行のバスを待つ細浦のバス停前には、撤去するわけにもゆかないのか、2年前のままの防潮堤が無残な姿を晒していました。このような箇所はここに来るまでの宮古市内や山田町内でも散見され、それを目にする度に大津波の破壊力の凄まじさと恐ろしさに、萎縮するのです。 雨に濡れる山田町の景のそれは、実は私が想像していたそれよりもずっと、ずっと穏やかなものでした。それは思えば、単純にガレキが片づけられていたからというのはあるのではと、自分なりに思います。しかし、ガレキを喪っても、同時に失われた街並みや人々の営みが直ぐに戻って来るわけではありません。今回の道中で常に身につまされたのは、その一点でした。そしてそれは、被災地外の外野である私達が最も「感じにくい」部分でもあるのです。だからこそ知りたかった、だからこそ視たかった、そして伝えて行く。私たちは細浦から宮古駅前行のバスに乗り、山田町を後にしました。 (2日目その5に続く)
by ar-2
| 2013-07-19 13:11
| 外出・旅行
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