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赤い電車は白い線

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2012年 09月 19日

我が回想の「国電」(鶴見線営業所に101系を訪ねて)

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如何にも季節の変わり目らしいというか不安定な陽気のこの頃ですが、偶には鉄ヲタらしい記事でも・・・ということで、数日前の記事で触れた鶴見線101系に関わる回想を今回は纏めたいと思います。



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戦後期における国電に「革命」をもたらしたと申しても過言ではない101系は、それまでウンコ色ばかりの地味な装いが「普通」だった時代に新風を吹き込み、既に先んじて現出していた営団300形電車ともども、我が国の「電車」における礎を構築したと言えましょう。その101系で確立された「20M車体・両開き4扉」というスタンダードが、実に民営化後の209系0番台(及び準ずる車体を有す形式/番台)まで連綿と受け継がれた事実はその存在の偉大さの片鱗を窺わせるものであり、そしてまた「国電」を語るうえで欠くべからざるものとなっています。

そんな101系は私が鉄道趣味を意識し始めた頃には既に一線を退いていたと言ってよく、確実に乗車/撮影が出来たのは南武支線のワンマン車ぐらいでした。本題はタイトルの通り鶴見線営業所訪問時の記録ですが、これが今から21年前の1991(平3)年7月7日。実はこの1991(平3)年というのは101系にとっては節目となった年で、1月20日限りでに南武線(本線)における6連の営業が終了、そして4月28日には大阪環状線開業30周年記念「歴史電車」の運行を最後に関西における営業が終了する等、大きなトピックが続いたのです。私が同区を訪問したのはそれらの事象の後で、もはやなし崩しで「後が無い」状況、実際に稼働しているかも判然としない情報環境で「雲を掴むような想い」で足を運んだのです。
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くどいようですが、当時はケータイもインターネットもありません。兎にも角にも鶴見線で弁天橋を目指した私は同駅到着直前に車庫内に101系の留置を確認し、同じ市内でも遠い遠い存在であった国電カラーの同系を目にするに至ったのです。駅から僅かばかりの徒歩で車庫へと向かい、その門扉外からまずファインダー越しに捉えたのがこの画像・・・記念すべきファーストショットです。この当時はオフセットされたAU75クーラーに対しては「変だなぁ」と感じるに留まったもので、これが中央線快速向けに101系初の冷房車として改造された初陣40両の仲間であると知ったのは、随分後の事になります。5基しか無いグロベンに注意。

その中央線快速向けの冷房改造車は、103系のそれに遅れる事2年後の1972(昭47)年夏季に10連4本が仕立てられ、民鉄/国鉄問わず非冷房車だらけであった首都圏の通勤電車にささやかな涼風をもたらしました。この時に冷房化改造されたナンバーを、形式別に記しておきます。

(クモハ101・・・8両) 168 175 199 200 206 207 208 209
(クモハ100・・・4両) 167 182 187 188
(モハ101・・・4両) 224 249 258 259
(モハ100・・・8両) 207 222 253 254 260 261 262 263
(クハ100・・・4両) 57 63 73 80
(サハ101・・・10両) 129 130 131 132 135 136 282 299 300 301
(サハ100・・・2両) 105 106

101系の製造は既に1969(昭44)年を以って打ち切られ、以後は103系の増備へとスイッチして行くのみ・・・とはいえ、国鉄のみならず他の民鉄各社もそうであったように、生活水準の向上により非冷房車が当たり前の接遇というわけにも行かず、冷房車の増備が急務とされてきたのがこの時代でした。果たして101系の冷房改造車はこれら40両を初陣として、ややインターバルがあったものの1976(昭51)年度から101系自体の廃車が始まる1978(昭53)年度まで(79年度まで説あり)、52両に施されたのです。この52両と初陣の40両、合算しても92両と100両に届きません。その形式別施工両数を記しますと・・・

クモハ101・・・20両
クモハ100・・・7両
モハ101・・・9両
モハ100・・・22両
クハ101・・・該当無し
クハ100・・・13両
サハ101・・・19両
サハ100・・・2両

ここには民営化後に冷房化改造された南武支線ワンマン車はもとより、無論秩父鉄道譲渡車やサハ103形750番台への編入に併せて冷房化改造されたナンバーは含んでいませんが、その101系における総数約1500両のうちの1割にも遠く及ばない比率には、今更ながら驚かされます。とは言え103系はこの頃既に1973(昭48)年度から冷房車が「新製」されていたので、101系の冷房化を推進する事には国鉄自身が積極的ではなかったという事なのでしょう。
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ハナシを戻しまして弁天橋。門扉前から「クーラーをオフセットした変なクルマ」を遠望しただけで、果たして満足するほどの聖人君子であったかどうかその顛末は言わずもがなですが、兎に角ギラギラしていた頃の私の中での鉄道趣味、とりわけ写真撮影という媒体における記録では「いま撮らなければ、いつ撮る?」といういわば一つの盲信が絶対軸となっていたのです。ろくすっぽ社会に出た試しの無い10台前半の難しい?年頃の私が二の次にとった行動は車庫事務所の訪問、頬を紅潮させ来意を自分なりに丁重に告げればまさかの撮影OK!日中は殆ど入れ替えの無い小規模基地であったからこそでしょう。

ここでカウンター上に出されたのは見学者名簿で、記帳しながら話を伺えば事前に「◎◎部◎◎課」(一応伏せておきます)を通せばスムーズに対応出来る・・・と、丁寧に同部署の電話番号まで教えていただきました。その後実際に同部署へ幾つかの基地見学を申請したのですが、やはり個人単位というのに無理があるのと併せ、他基地は大きなところばかりでしたので通る事はありませんでした。結果、この時が私にとって(まず)最初で最後の「アポ無し」でのJR車両基地見学となったのです。
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簡単な手続きの後、借りたメッチを被り立ち合いの職員サンと共に基地内へ!それは規模としては小さなものでありますが、既に当時オリジナルカラーの101系がベースとする基地はここ鶴見線営業所だけであり、それは実に濃密なものだったのです。まずは門扉に近い側に留置されていた第5編成、車番は鶴見方からクハ100-73、モハ100-222、クモハ101-175です。全て前述の中央線快速向け、1972年度の冷房改造車グループです。特にクモハ101-175は前照灯が原型の白熱灯のまま!大いにときめかされました。当時は103系でも原型白熱灯は珍重されたものです(京葉線や常磐線の冷改クモハで見られた)。左で肩を並べる第4編成は、クモハ103-51他3連。トタ区から転属してきた編成と当時のメモにはあります。
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当時の鶴見線と言えば、むしろ101系よりもこちらのイメージが一般的に強いでしょう。1996(平8)年3月の改正まで、実に60年以上に亘って現役であり続けたクモハ12です(画像は12052)。立ち合いの職員サンによれば2両のうち運用に就かない1両は、大抵は庫(クラ)側に押し込んで留置してある・・・との事で、このように屋外でひなたぼっこ状態にあるのは珍しいのだとか。そして画像でも判る通り、側面客窓には何とも不恰好な柵が設けられてしまっています。これについても伺ったのですが、曰はく「(クモハ12には)冷房装置が無いので、運輸省(当時)の省令により旅客が窓から手や顔を出したりするのを防ぐため」との事でした。
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今にしてみれば冷房装置の有無との相関が今一つピンと来ないのですが、非冷房車が故に窓を固定化できないのと、そしてその窓自体が「木枠」である事から開口面積を狭くする(要は上昇範囲を抑える)工事が難しく、その結果の苦肉としてこのような仕様に落ち着いたのではと思われます。もっと言うと、そうまでして昭和ヒトケタ生まれの古典車両を現役であり続けさせていた当時のJR東日本の気概は、本当に好きでした。画像は運用に就いている12053の大川行との一瞬のランデブー!前述の通り、このようなシーンも当時はナカナカ捉えられなかった筈です。
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鶴見線のヌシとも言えるクモハ12は12052と12053の2両が在籍し、前者が1929(昭4)年製、後者が1931(昭6)年製で外板リベットの多少でその差を見せていました。画像はひなたぼっこ状態の12052と、構内通路の踏板を挟んで対峙する・・・そう、もう1本の101系である第6編成です。
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その第6編成は、鶴見方からクハ100-90、モハ100-263、クモハ101-209。クハ100-90を除いた他2両は先の第5編成同様、中央線快速向けの1972年度冷房改造車グループ40両の仲間です。言うまでもなく非冷房車が先に淘汰されて行く摂理、それ故とは言えこのような「先行試作的」な位置付けの冷房改造車が最晩年まで纏まって生き残ったのは見ようによっては皮肉ですが、それほど冷房の「有る無し」は鉄道車両の命運に関わってくるポイントであるとも言えましょうか。初夏の日差しの鶴見線営業所、この頃の大宮工場の解体待ち側線を埋めていた同じ色の仲間を思い浮かべながら、こうして最終期の現役個体を記録できた幸運を噛みしめつつ、私は1コマずつ慎重にシャッターを切ったのです。
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こちらは庫側に回り込んで捉えた画像、右は第5編成のクハ100-73で、左は第7編成のクハ103-583です。第7編成は鶴見線に転入して来た103系のトップを飾った編成で、退役まで時間の問題となっていた101系とのツーショットは印象深いものがあります。
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最後にオマケ的な画像ですが、既に一切の検修作業を行っていなかったものの庫(クラ)が健在でした。その造りはおよそ首都圏における通勤型電車を擁す基地のイメージからかけ離れた超木造!支柱から画像奥に見える開き戸まで、全てがウッディーです。立ち合いの職員サン曰はく、恐らくというかまず鶴見臨港鉄道時代からの建築物であり、所々腐食してしまった箇所は部材を交換している・・・との事で、せいぜい仕業検査を雨風凌いで行う事ぐらいでしか用をなさない庫ながら、その維持には手を焼いているようでした。その庫の脇にはコンクリート製の洗浄台があり、これも鶴見臨港鉄道時代からのもの・・・と説明いただきました。今はどうなっているのでしょうかね。
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秩父鉄道に大量譲渡されたグループも置き換えが粛々と進み、いよいよ先が見えてきた気がしなくもないですが、現役編成のうち1001Fのモハユニットは1961(昭36)年11月製で車齢51年目前・・・かくしゃくたるものです。まだライブで耳にするチャンスはありましょうが、あのMT46の甲高くそれでいてマイルドな音色は、今も鼓膜の奥を震わせているような気がしてなりません。鶴見線の101系については「さよなら運転」にも接していますが、それについてはまた稿を改めて触れたいと思います。

by ar-2 | 2012-09-19 16:23 | 記憶のレール(国鉄~JR)


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