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赤い電車は白い線

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2011年 08月 05日

東武亀戸線・失われた中間駅を辿る(前編)

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東武亀戸線は東武における都心に最も至近な一支線であり、延長3.4キロに全5駅(平均駅間距離約700M)という都市型ローカル線と言えます。そんな亀戸線ですが、かつての都心ターミナル乗入れに関わる思惑の移ろいにより開業から6年間だけ「本線」扱いだった時期があり、本年で107年の歴史を刻むのは伊達ではないようです。とはいえ輝かしい「本線」時代が終わった後の1世紀はローカル線として甘んじる事となり、現在の亀戸線へと至っているわけです。本日実地踏査した亀戸線における廃駅というのは、ローカル線化後になされた電化(1928年)により設けられたものが殆どであり、その点にチャンネルを絞りつつ記していきたいと思います。



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昨日・本日と公休が続いたのですが、昨日は朝からの不安定な陽気でパス・・・のはずがいつの間にか安定してしまい、出かければヨカッタと後悔してもタイムアウトで大いに腐った次第です(涙 本日朝も昨日と同じパターンであったので、以後の天候に関わらず早々に出立を決めましたがこれは正解だったようで、目当ての廃駅跡についてはほぼ意中通りに踏査する事が出来ました。まずはスカA線~総武快速直通で錦糸町へ出、各駅停車で1駅スライドして亀戸に到着・・・自宅からの所要は約1時間半ほどでした。そして駅の北側から亀戸線に沿って歩き1つ目の踏切へ・・・早速8000系を記録します。というか亀戸線は同系の独壇場でしたね。
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最初の目的地はここではなく2つ目の踏切でして、そこから曳舟方を見れば・・・おお、ありますね。上り線(曳舟行)の外側に礎石のようなものが目視で1、2、3・・・19基もあります。これこそ、(初代)亀戸水神駅のホーム支柱の跡と言われる構造物なのです。
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★(初代)亀戸水神駅跡
・1928(昭3)年4月 開業
・1946(昭21)年12月 北十間駅と統合し現在の亀戸水神駅へ移転

冒頭でも触れましたように亀戸線では1928(昭3)年の電化を機に、それまで1つしか有さなかった中間駅(天神駅・後述)を一挙に6駅も追加し、延長3.4キロの間に全9駅というさも路面電車の如きの密集度となったのです。これは電化によってそれまでの蒸機とは異なりハイピッチで発進・停止がなせるようになった事による、フリークェントサービスの拡充を狙ったものと考えられます。このような一見過剰とも思えるほどに駅を密集させた郊外電車の例としては、その昔の江ノ電における約40駅(当時は停留所)のケースがあり、同電鉄においては現在は半分以下の16駅(峰が原信号所を含む)へと整理されています。
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礎石の近影です。支柱には古レールが使用されているとの説ですが、見た感じでは2本使用・・・というか溝付きレールに見えるような気もします。そもそも私が亀戸線における一連の廃駅を知ったのはweb上のあるサイトでして、やはり一度は実見しておきたいというのと、当該の記事から年数が経過しており現状が知りたいという点により今回の実地踏査を成したわけです。東京の都心部における廃駅としては京成の博物館動物園と寛永寺坂、東急の並木橋や西武池袋線の上がり屋敷などが有名どころですが、亀戸線のように数駅が纏まって過去帳入りしているケースは稀と言えるものであり、そういった意味でも大いに関心が沸くものです。
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そして反対側の下り線(亀戸行)側はというと・・・ありました!上り線とは異なりかなり埋もれていますが、同形状の礎石が数基確認できます。以降の廃駅跡についてもこの礎石が遺構の中心となるのですが、古レール2本使用とはいえ事実上「1本」の支柱でホームを支えていたでしょうから、その幅員たるや恐らく想像以上に狭いものなのかなと思います。私自身、この裏付けをとれる時代の記録を見た事が無いので興味の持たれるところです。
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ひとしきり見学を終え、次に向かうは(初代)亀戸水神駅の統合相手であった北十間駅です。線路に沿ってコースを取り、現・亀戸水神駅をスルーし1つ目の踏切を過ぎた先にその「膨らみ」はありました。ここが北十間駅の跡とされています。奥でオーバーパスしているのは蔵前橋通りです。
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上り線側の膨らみの部分ですが、ミョーにサッパリしていますね。ここに礎石の類が後年まで残存していたとしても、撤去されていておかしくない状態です。そして下り線側の様子はということで・・・
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★北十間駅跡(擬定)
・1928(昭3)年4月 開業
・1946(昭21)年12月 (初代)亀戸水神駅と統合し現在の亀戸水神駅へ移転

蔵前橋通りの跨線橋へ上ってみました。ここは亀戸線唯一?の公的な直上俯瞰ポイントとも言われているスポットです。下り線側はというとそれらしい空き地が手前に見えますが、上り線の空き地が長めなのが気になりますね。先ほどの(初代)亀戸水神駅跡の礎石配置を見るとホーム延長は1両少々といったところですから、上り線側の空き地全てが北十間駅跡ではないような気もします。そして(擬定)としたのはウィ◎のデータによれば現・亀戸水神駅と北十間駅間のキロ程は「200M」となるのですが、画像奥に写る現・亀戸水神駅の位置からして駅中心であってもせいぜい100M程しか離れておらず、不自然に感じたからです。

データが間違っているのであればある意味収まりはつきますが、そもそも北十間という駅名は現在の蔵前橋通りの北側を流れている「北十間川」に来歴するものと考えられ、その割には川から駅の位置が離れているのでは・・・というのと、蔵前橋通りが亀戸線を跨ぐ部分からアプローチしている江東新橋の開通が1961(昭36)年と駅統合よりかなり後の事であり、そのアプローチ部分と江東新橋がセットで建設されたとするならば、蔵前橋通りと直交するポイントないしその北側に北十間駅はあったのではないか・・・と疑念を抱き始めたのです。

こういった検証は本来古い地形図等を叩き台にして成すのがセオリーですから、準備もロクにせずに憶測で語るのはある意味危険でしょうか。とはいえ逆に資料に恵まれすぎて却って判断し難くなるよりは、己の勘と考証、嗅覚を研ぎ澄ませて廃線(廃駅)跡を辿りたいというのもあり、あえて「見当違い」を承知で記した次第です。しかしやはり真相を知りたい事に違いは無く、これは後学の楽しみとしておくきましょう。
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ひとしきり見学を終え、次の目的地へ移動すべく現・亀戸水神駅から上り電車に乗車します。やってきたのは8565Fですが・・・客扉内側が「塗って」ある電車の乗車したのは何年振りでしょうか。記憶に無いほど久し振りに思います。

以下、後編に続きます。

by ar-2 | 2011-08-05 19:48 | 鉄道廃線(廃駅)跡


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