カテゴリ:記憶のレール(総合)( 16 )


2014年 03月 03日

懲りない業務連絡

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★2004(平16)年10月16日? 東武野田線 野田市にて
「あの日、あの時、あの場所で」
人はそれをニアミスと言う・・・否、もはやこれは「正面衝突」である!とも。
翌17日にもイベントは行われていますが、記憶の限りでは初日の訪問だったはずです。
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★2004(平16)年10月16日? 東武野田線 野田市にて
イベント云々に関わらず、FS-10には惹かれるものがあったようで・・・。
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★1997(平9)年9月30日 信越本線 横川にて
おぎのやの販売員の方は有名な存在でした。碓氷峠廃線間際には数多のメディアに出演されていたのを覚えています。
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★1997(平9)年9月30日 信越本線 熊ノ平(信)~横川にて
誇大表現を承知で言えば「一億総鉄チャン」・・・そんなふうに思えた瞬間が確かにありました。
それは善し悪しの問題ではなく・・・そう、「時代」だったのです。
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by ar-2 | 2014-03-03 23:43 | 記憶のレール(総合) | Comments(0)
2014年 02月 25日

業務連絡って何だっけ

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・・・とまあ、表題の通り覚えているものをup。
先ずは1993(平5)年3月13日に甲府で撮影した1521M~421Mの姿。手前から1両目と3両目にはJRマークが見えますが、4両目には無いのが確認できます。これがいわゆる6連の「半固定編成」で、手前からTc-M-Mc+T-M-Mcの組成となっています。この当時の俗に言う「山岳夜行」は前述の列車番号の通り、甲府で別列車として取扱い上は分断されるも、実態は松本まで直通していました。甲府での1時間35分もの長大停車が名物でしたが、この年の12月改正で臨時列車化されてしまったのです。
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撮影年月日が不詳ですが、事前のハガキ申込みによる抽選公募制でなされた、京成の宗吾車両基地での撮影会です。日頃から公開行事の無い基地だけに遠路を厭わず馳せ参じたるも、折角現有形式(当時)のフルラインナップを展開してもらったとはいえ、前面の表示が無表示行先幕と「回」の種別幕という、全く色気が無いというかロジカルないビジュアルにガッカリでした。撮影立入範囲も限られ、主催者側の注意喚起を含めて随分ピリピリした雰囲気であったのを覚えています。駅名行先表示を出さなかった事と含めて、宗吾という立地ゆえの何か特殊めいた事情があるのではと訝ってしまいます。確かに、色々と問題を抱えている界隈ではありますが・・・。そんなわけでこの時の記録は、この画像を含めた角度違いの2カットのみに留まっています。
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次いではオマケです。
高架化工事の進捗も見える京成船橋駅前・・・地上線が複線だった頃の記録です。通過する京成の車番は3341と読めます。何故これを撮ったかというと、踏切の遮断様式が竿ではなく、ロープの昇降式であったのが稀少に思えたかたら。遠方にはJR総武線各駅停車のE231?の姿も見え、さほど昔のようには思えませんが、現在この界隈は変貌したようです。
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by ar-2 | 2014-02-25 16:04 | 記憶のレール(総合) | Comments(0)
2013年 09月 01日

PLAY BACK~あのとき何処で(2008・9・1)

ネタに困らないほどのエキサイティングな日常は無く、公休日は専ら体調調整や模型工作に充てています。このところ数多の書籍を入手しても碌に目を通せていなかったので、それらを手に取ったりも・・・。先日の「きそ」における土壇場での失敗が水を挿したというわけでもないのですが、いよいよ迎えた9月の今月は実車マンスリーです。半ばに大きな旅行を控えていまして・・・それについてはおいおい触れられましょう。そんな9月1日は防災の日ですが、タイトルのシリーズを久し振りに展開したいと思います。時は2008(平20)年ですが、この頃のメモリーカードは上書きしてしまっていますので、上書き前に焼き付けたディスクから画像を引っ張っています。
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2008(平20)年9月1日、私は・・・北千住まで出向いてますね。間違いなく公休日の活動ですが、撮るに値する対象が漸減してしまった今となっては考えられないアグレッシブさですw
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そう、5年前の本線には旧顔が居たんですよね。まさに「五年一昔」。
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その後は堀切へ移動。にしても8516F・・・この頃下り方先頭車のホロ付き顔を確実に拝めたのは、本線系だけになっていたはずです(東上の旧顔は6Rであり、2Rや4Rを増結していたのが殆どであったので)。
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右に同業者の姿も見えますが、既にこの頃から追いかけられる対象になっていたんですね。無論、旧来よりしっかりとフィールドワークとされていた(私にとってみれば京急1000(Ⅰ))歴々とは別の意味で、です。
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支線のワンマンカーは相変わらずですが、今後はこれらの動静も楽観は出来ないでしょう。野田線に新形式の新車が入線する時代です。
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締めくくりの画像は何故か丸ノ内線。それも中野富士見町行とか・・・まず間違いなく池袋ですね。時間帯的に呑みに行ったのでしょう。そんな時代もありました(何
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by ar-2 | 2013-09-01 21:03 | 記憶のレール(総合) | Comments(0)
2012年 11月 05日

えっちゅうとかいてとやまとよむ!

本日2本目です。

唐突ですが、年明けに富山行となるのが(ほぼ)確定しました。
というわけで今を遡る事約22年前のゴールデンウィークにおける家族旅行で、初めて訪れた富山の地の記録をチョッとばかり振り返ってみたいと思います(特に深い意味は無い)。

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by ar-2 | 2012-11-05 21:49 | 記憶のレール(総合) | Comments(2)
2011年 12月 14日

PLAY BACK~あのとき何処で(2003・12・14)

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本日は12月14日です。

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by ar-2 | 2011-12-14 22:06 | 記憶のレール(総合) | Comments(0)
2011年 08月 04日

PLAY BACK~あのとき何処で (2002・8・4)

本日は8月4日です。
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2002(平14)年8月4日、私は松山に居ました。
本年秋の四国行について、伊予鉄道訪問を「10年ぶり」と最近記していたのはどうやら(大きな)記憶違いではなかったようで、
予定通りに事が運べば正確には実に9年ぶりというこになります。今回は私にとって初めての伊予鉄道の記録を振り返ってみましょう。

画像の67号は50形の後期形の内の1両ですが、同形式は前期形と後期形で全くデザインの異なるのが特徴となっています。
前期形はどちらかというと京都市電から譲受た2000形のオデコを丸くしたような感じで、後期形はというと呉市電から譲受した1000形と
同一デザインとなっています。その後期形の内でも側扉の枚数や側面リブの有無といった、製造年次によるバリエーションがあります。
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こちらが呉市電から譲受した1000形1001号ですが・・・うり二つですね。製造年次は50形前期形よりは新しく後期形よりは古いですが、
譲受した3両全てが現在は引退しています。薄鋼板に剛性確保のリブを設けたボディは軽量化を目論みバス車両の工法を採り入れたもので、
確かに軽量化や工法の簡素化によるコスト低減は図れたようですが、最終的にはトータルでは大したアドバンテージとはならなかったようで、
南部縦貫鉄道のレールバスのような長命を例外とすれば、鉄道車両における採用例の殆どが大成しなかったように思えます。
にも関わらず、伊予鉄道市内線の50形・後期形における「軽量車体」がいまなお数両稼動しているのは奇跡的と言えるものです。
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そしてこちらは伊予鉄道市内線の名物とも言える「坊ちゃん列車」です。2001(平13)年秋の運行開始の翌年の記録となったわけですが、
私的には併用軌道を走ってきた路線の終点駅の先に、なんとも味わい深い引上線のある事にインパクトを覚えました(笑
肝心の「坊ちゃん列車」そのものは内燃機関によるレプリカですが、そのビジュアルはもとより手間のかかった運行方に関心が沸きました。
画像は道後温泉に到着し引上線へと向かう「坊ちゃん~」の後打ちでして、後部では車掌サンが身を乗り出して前方を監視しています。
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この引上線には左分岐の片亘りがありまして、「坊ちゃん~」はその手前で停止し機関車を切り離してしまいます。
機関車は亘りの分岐を過ぎたところで内蔵式ジャッキを用いて方向転換、単機で亘り線を越えて隣線へと転線します。
そして残された客車はというと・・・何と人力で移動!これには驚きました。確かにヘタな貨車よりもミニマムに映りますが、
毎日推していたらシンドくないかな~とも思ってしまいました。因みに前方の1両目でも別の係員サンが推していたはずです。
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隣線へと逃げていた機関車は、バック運転で再び亘り線を越えて客車と連結。これで機回しが完了し体勢が整いました。
しかしすぐには牽き出さず、隣線奥で待機していた電車(74号)を先に発車させます(分岐器が定位になっていますね)。
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74号の後を追うように「坊ちゃん~」も引上線を離れますが、この時駅前の「展示線」へと入ったか記憶にありません(汗
当時はフイルム代も馬鹿にならなかったので、撮影するコマを随分ケチっていたのだなと思います。この時の松山における記録も
次の大街道におけるコマが最後で、その次のコマは秦野駅前で撮影した7Eだったりするんです。それと比べれば今やコンデジでも
事実上の「無制限」状態。一度の遠出で数百カットは当たり前・・・時代は10年足らずでここまで変わりました。
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大街道を往く「坊ちゃん~」、何だかとってもファニーな光景です。この「坊ちゃん~」は私が訪れたこの日からまさに数日後の
2002(平14)年8月8日に第2編成がデビューし、併せて乗車料金もそれまでの「1日乗車券とのセット券/¥1000」から
改められたとのことなのですが、そのあたりもまーったく覚えていません(涙 とはいえ本秋にはこの時とは全く異なるであろう視点で
市内線に接し、併せてこの時興味を示さなかった?郊外線についてもこの上無いほど堪能したい!という意気を有しています。

しかし・・・以前松山市内に3日間(時間的には2日間?)滞在した某氏ですら、郊外線の全線踏破が叶わなかったくらいですから、
一体どれだけ見るべきものがあろうかと考えると、数ヶ月先の事とはいえそのプランニングへの姿勢を緩めることはできません。
二兎追う者は・・・とありますが、いかにポイントを絞るかが自身の満足度向上に繋がるものと信じたいところです。



以下、余話
この時だったと思うのですが、松山発の「ムーンライト松山」乗車前に駅前のコンビニでワンカップを購入し、ベンチで乾杯となりました。
このワッカップは市井にありふれたものではなく、前評判の高かった「梅錦」という地元の銘です。上質のモノはまるで水の如くスイスイ行ける・・・
とのことでしたがワンカップが果たしてそうだったかは兎も角、チョット度が過ぎたようで危うく乗りそびれそうになったのも想い出です(笑
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by ar-2 | 2011-08-04 18:09 | 記憶のレール(総合) | Comments(4)
2011年 07月 07日

笹の葉

本日は7月7日・・・七夕です。
早朝の出勤時には見えなかったのですが、退勤時に地元のJR乗換駅に降り立ちましたところ改札内には笹の葉が据え付けられ、
無料の短冊コーナーが設けられ女学生などの旅客が祈りをしたためていました。粋なサービスだと思います。
そんなわけで、七夕チックな画像を2点ばかり・・・。
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★1991(平3)年7月6日 戸塚にて 快速「平塚七夕2号」9972M
ミツ区の169を用い、特製ヘッドマークも誇らしげな臨時快速「平塚七夕」号。運行区間は新宿~平塚間で、当時は新宿・池袋発着の
「スーパービュー踊り子」や臨時快速「伊豆マリン新宿」ほか団臨でしかなされなかった戸塚構内における東海道/横須賀間の転線が
見物でしたが、20年後の今日においては全く珍しいものではなくなるとは当時想像だに及びませんでした。
「平塚七夕号」自体はこの年のみならず前後して運行されていますが、画像のヘッドマークが装着されたのは当年とその前年が記憶にあるものの
以降については装着がなされなくなり、車両もミツ区の169からチタ区の167(H11+H19)へと変わる等の変化が見られました。
因みにヘッドマークの地色ですが、画像の反対側(下り側)は白地のものとなっていた事も付記しておきましょう。
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★2000(平12)年7月9日 平塚駅北口付近にて 社番:ひ133
神奈川県南に在してきた私にとって、やはり七夕=平塚なのです。本2011年はその催行が危ぶまれたようですが、結局は例年通りとなったのは
正直なところホッとしたものです。「単なるお祭り」と揶揄されてしまえばそれまでですが、やはり多くの動員によって街が賑わいに彩られ、
商人がその「魂」を大いに発揮できる場が設けられるのは何よりの事と思います。

そんな平塚七夕の催事ですがバスファン的な視点?で見ますと、まず催事当日は平塚駅に独占的に乗り入れている神奈中において
大規模な経路変更・乗場変更がなされ、更には臨時系統の運行(浜見平団地~平塚駅)やそれに伴う補充として他営業所からの出張運行、
廃止系統の復活?(平72)、レア系統の増発(平95)などなど、市中に繰り広げられる七夕飾り以上にその「特異」さに目を奪われたものです。
画像はそんな最中におけるワンシーン。「走るチビっ子ギャラリーバス」として登場し、年少者の神奈中認知度を高めた存在ともいうべき
「カナちゃん号」です。ボディの尺は2種類、営業所毎に装飾パターンが異なったり興味深い標記等・・・はまた別の機会に譲るとして、
2001年12月に登場した二代目「かなちゃん号」によって置き換えられてしまった「初代」と七夕飾りのコラボは今なお目に染み入るものです。
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by ar-2 | 2011-07-07 19:23 | 記憶のレール(総合) | Comments(4)
2011年 05月 13日

PLAY BACK~あのとき何処で (2001・5・13)

本日は5月13日です。
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・2001(平13)年5月13日 尻手にて

国鉄通勤型電車のベストセラーというか代名詞そのものと言ってよい103。根岸線本郷台駅の近傍で生まれ育った私にとって、鉄道趣味における実車への興味を抱かせた存在であると同時に、身体の一部であったとも言える存在です。その103も東日本においては、1993(平5)年に価格半分・寿命半分の「10年電車」209の登場以降、急加速度的な淘汰がなされたのは周知の通りです。
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・2001(平13)年5月13日 府中本町にて

10年前の2001年といいますと、すでに大所帯の京浜東北筋に103の姿はありませんでしたが、常磐線にはまだE231が投入されておらず、南武線、鶴見線、川越線、武蔵野線、京葉線、仙石線においてもその姿をまだ認められました。故、103への稀少性というものが実車趣味界において広く認知され始めたのは、もっと後の事だったと思います。武蔵野と京葉におけるクモハ103は、ATS-P機器搭載に伴って運行灯が埋められ画像の通り野暮ったい顔付きとなっていたましたが、この顔のカラーバリエーションに実は青22号と朱色1号以外のモノが存在したのです。それは・・・
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・1993(平5)年3月29日 矢向にて

クモハ103-103において、カナリヤイエローこと黄5号の装いが存在したのです。103の転配自体は決して珍しいものではありませんが、このような外見的特徴を有すクルマが少なかった103においてはインパクトのある転配だったと思います。この撮影日の数日後には南武線においても209の営業運転が始まり、やがて他線区からの玉突き捻出で低運車は次第に置き換えられて行きましたから、まさに南武線における布陣の激変期寸前の頃だったわけです。

ちなみにクモハ103-103の簡単な履歴ですが、蒲田区に新製配置の後、青梅線の旧形国電置き換えのため豊田区へ転出。その後前述のようなATS-P機器搭載を経て、1992(平4)年6月8日付で中原区へと転出するまで朱色1号の装いであり続けました。蒲田区から豊田区へは青22号のまま転出しその出で立ちで営業運転に就いたそうですが、さすがに平成の御世となってからは仕事が丁寧になったのか黄5号が施され、ここに唯1両という「運行灯埋めのカナリヤ」が誕生したのです。しかしその姿が見られた期間は決して長くなく、翌1993(平5)年10月1日付でその生涯を終える事となりました。

私が意識して記録している通勤型電車はもはや201のみとなり、そしてそれはいよいよ風前の灯となっています。恐らく今後、記録に値するような通勤型電車はもう二度と現れて来ないでしょうけれど、「20M級4扉」という規格においてのみ、私はきっと103の「影」に触れそして想い続けていくことでしょう。
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by ar-2 | 2011-05-13 23:05 | 記憶のレール(総合) | Comments(2)
2011年 04月 03日

PLAY BACK~あのとき何処で(1992・4・3)

広島行から帰還したばかりですが、本日4月3日をPLAY BACKしたいと思います(予め編集してありました(笑 )。
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1992(平4)年4月3日、東急世田谷線です。
「玉電」でも未だに通ずると言われる同線ですが、それはやはり玉電時代からの車両がそのまま継承されていたイメージに故かも知れません。
尤も、現在は全て300形に代替されてしまったので、ちょっぴり「玉電」のイメージが薄らいだ気もしなくはないですが・・・。
画像はその世田谷線と桜を絡めたくて訪れた日の松陰神社前での記録です。この時は広範囲に移動せず、松陰神社前付近で数カットを
押さえたに留まっていますが、それでも大東京に残るアンティック・トラムの変わらぬ佇まいと空気に満足したはずです。
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こちらは若林から坂を駆け上がって松陰神社前に迫るデハ85+デハ86。この2両のみは世田谷線のデハ80形一族にあって両運転台で残り、
検査時の穴埋めとして70形と手を組んだりすることもありました(最晩年は廃車の進行により、必然的にそのパターンとなっていました)。
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春うらら、松陰神社前で並ぶデハ86とデハ78。三茶行のホームにはデハ78に乗り込もうとする旅客が沢山見えます。
下高井戸行のデハ86の後部には車掌サンが見えますが、制服が何と二世代前のもの?に見えます。
これは今回のupに際して改めて目にして気づきました。確かこの後にグレーベースのデザインを経て現デザインに至っているはずです。
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松陰神社前~若林間、デハ75と銭湯の組み合わせです。
煙突には「つるの湯」の屋号があります。銭湯も減少の一途ですが、つるの湯は今も健在でしょうか。

世田谷線の旧形車が、150形をその掉尾として2001(平13)年2月10日に終幕を迎えるまで、その姿形を特性であるが故とは言え
大きく変えることなく稼動し続けた事はまさに奇跡であり、それが多くのファンを惹き付けた世田谷線の最大最高の魅力だったのでしょう。
恐ろしく高いステップを上がれば木目の内装に板張りの床、真鍮の金具が鈍い輝きを放つ袖仕切り、変わらぬ車体色・・・。
現代のあらゆる基準や感覚からかけ離れたアンティック・トラムは、時代が変わろうともその全てをしっかり主張し続けた頑固者、
まさに豪傑そのものであり、例えカメラを携えずとも身体一つで十分満喫できるほどのあり余らん魅力が詰まっていた・・・
それが私にとっての世田谷線だったのです。
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by ar-2 | 2011-04-03 22:25 | 記憶のレール(総合) | Comments(2)
2011年 01月 17日

湖国逍遥1986

直近ではないのですが、ようやく4度目の豊郷訪問が実行の見通しとなりました。
アニメも終わって久しく、専らのネタがライブと映画化ぐらいとなったとは言え、私にとって豊郷はまだまだ魅惑を秘めたる地なのです。
今回のメインは豊郷の他はというと大津界隈、即ち琵琶湖にグッと近付いたエリアです。ここへは2006年秋の大津線感謝祭のお手伝い、
翌2007年の入場客として以来の事ですから4年ぶりとなりましょうか。そしてその訪問理由はズバリ「鮒寿司」(ふなずし)にあります。

琵琶湖に棲息するフナを発酵に次ぐ発酵で仕上げる「鮒寿司」。淡水魚ならではの泥臭さやブルーチーズのような独特の香りを発する
卵巣など等、確実に好き嫌いを二分すること請け合いの「珍味」。しかしながら長いものではその仕上げに数年を要すという、
「クサイ」という酷評とは裏腹に相当手の込んだ一品なのです。これまでの近江行でも土産物屋で目にすることはありましたが、その仕上げの手間や
フナの漁獲量自体の減少もあって、保存食でありながら皮肉にも高級品と化しているのが現状。土産物であっても1尾あたりで概ね
¥2000~3000あたりが相場となっているので、誰でも気軽に味わえるというシロモノではなくなっています。

尤も、その好き嫌いを二分する要素からして1尾まるまるを入手するのはかなりの勇気が要る訳でして・・・。
そこで、この鮒寿司を手軽に味わいたい!ということでの大津行としたのです。もちろん宿泊地も大津です。
現地で何かしらの手がかりが得られれば良いのですが・・・これまでの近江行においても叶わなかった「珍味」と、是非に対峙したいものです。

というわけ?で、今回は1986(昭61)年の家族での琵琶湖旅行の折の記録から、目ぼしいものをピックアップしてご紹介します。
題して「湖国逍遥1986」・・・四半世紀前の湖国をとくとご覧下さい。

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by ar-2 | 2011-01-17 22:15 | 記憶のレール(総合) | Comments(0)