赤い電車は白い線

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2011年 09月 12日

14年の封印を解いて~初めての「しなの鉄道」

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昨9月11日に信州・佐久までの墓参に赴いた事は既述の通りですが、その帰途はこれまでのような新幹線一本ではなく佐久平から小海線で小諸へ出、かつての信越本線である「しなの鉄道」を経て軽井沢からの新幹線乗車というコースをとりました。

かねてより折りに触れて記してきましたが佐久は実父の故郷であり、私自身もその帰省の度に幼少より幾度も訪れた地です。親父は熱心と言えるほどのレールファンではありませんでしたが、かつて自身が体験した横軽間のアプト式時代や御代田のスイッチバックの話、そしてこれは叔父貴からではありますが中込から中央線経由の急行(「八ヶ岳」でしょうか)で上京した話など、私が生を授かる遥か前の数多の事象の伝聞はいまもかけがえのない糧として心に残り、ある意味私自身の鉄道趣味の方向性に影響を与えたと言ってもよいものです。

斯様な境遇である上に私の本籍が佐久とされている事はやがて無意識の内に「矜持」となり、それは横軽間の晩年時に対しての鉄道趣味の全エネルギーの傾注へと繋がって行ったのです。横軽間廃止後はその反動とも言うべき中だるみの期間がしばらく続きましたが、他方口数の少ない親父が程なく乗車した長野行新幹線(当時)の速達性を喜び表現した事は、当時レールファンの間で当然のようにくすぶっていた「横軽間廃止反対」「オリンピック新幹線不要」といった感情論のまさに対極であり、それまでの鉄道趣味を通じた私自身の「モノの見方」に大きな衝撃と変化を与えたのです。

あれから14年・・・分断された信越本線の長野県側が「しなの鉄道」となってからの佐久往還は当然のように新幹線利用となり、所要時間も大きく変わり峠越えの実感も無いままの信州入りの機会が続きました。今回の墓参の帰途に14年間の封印を解くに至ったのは色んな意味で気持ちの整理がついてきたというのと、今一度かつての轍を辿り数多の面影に触れたいと願ったのと、そして私自身の「郷土愛」を確かめたかったからなのでしょう。

信州・佐久への述懐は本当に尽きませんが、前置きはこのくらいにして佐久平から小海線を経て初めての「しなの鉄道」へと向かう事としましょう。



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まずは佐久へのアプローチから。不慣れな旅客の多い事やICシステム普及による取り扱いの煩雑さから混乱している東京駅の新幹線乗換改札を抜けホームに上がれば、臨時の「あさま563」が発車を目前にしています。自由席狙いですので1本待ちは覚悟していたのですが、その563号の自由席はというと思いのほか空席が目についたので急遽乗車しました。とはいえその空席も多少の入れ替えを伴いながらも高崎で満席に。ただ通路にまで立客が出るほどではなかったので、やはり臨時は狙い目なのかも知れません。かの66.7‰を擁した碓氷峠も長大トンネル(確か33‰?)でクリアーして軽井沢。いつもの如くここでは纏まった降車があります。そして東信の母なる山・浅間はというと頂を雲に覆われて・・・それでもこの峰を目にすれば確かな信州入りを実感させられるのです。
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以前なら佐久平から小海線に乗り換えて中込まで出ていたのですが、今はもうタクシーでダイレクトアクセスです。常用しない私が言うのも何ですが、佐久市域の人の流れは今や完全に佐久平中心になっていると言ってよく、それは駅至近に構えるイオンの駐車場の埋め尽くされる様子や周辺に寄生する数多の飲食店舗、そして小海線旅客において明らかに新幹線利用とは見えない向き(学生や高齢者)が佐久平で入れ替わっている現実に読み取れ、かつて機関区を擁し小海線の拠点地でもあった中込の衰退ぶり(駅前の元西友が半ば廃墟化)を改めて感じさせられた格好です。
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そんな思いを抱きながらも墓参を済ませ、軽井沢のアウトレットに寄りつつも新幹線で帰京するという同行者と別れ、私は13:14発の227Dの人となりました。やってきたのはキハ111+112の固定編成。無意識に乗り込んだ1両目のナンバーを遠目に見やれば・・・!これもある意味「引力」なのかも知れません。そんな偶然に心酔しながら、いよいよ14年振りとなる小海線の小諸口の旅が始まります。時間帯もありますが、佐久平で旅客の入れ替わった車内は空いていて、およそ小諸へと向かうような行楽客の姿も殆ど見えません。新幹線開業で対東京直通列車を一夜で失った小諸の街も恐らく空洞化し、また人の流れも大きく大きく変わってしまったのでしょう。
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とうとう227Dは満席とはおよそ程遠い乗り具合のままで小諸に滑り込みました。これが小海線小諸口の現実でしょうか。それでも有名撮影地「乙女のカーブ」通過時に車中から目にした浅間は雲が取れてきていて、思わず慰められたのです。小海線と信越本線の乗換駅であった小諸は、信越本線の「しなの鉄道」化によって小海線とは他人同士の間柄となり、その構図が軽井沢方にはっきり見てとれ時代の流れを感じます。そう、もう線路は繋がっていないのです。。とはいえそれぞれを繋ぐ昔からの跨線橋には中間改札の類はなくウォークスルーできますから、ここだけは昔のままだなと思わずハッとさせられ、189系「あさま」へと乗り換えるあのイントロが蘇ってくるようです。
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しなの鉄道と名は変えたものの、稼動する車両はJRの払い下げである115系の色替えですから飛びぬけて「別物」になったという印象はこの時点ではありません。ただやはり以前に小諸を訪れたのは新幹線開業前ですから、当然のように変わっているところは変わっているわけです。むしろ、14年以上のインターバルでその「変化」に気付きにくくなっているのかも知れません。

小海線の車両はもう20年ほど前から現行のキハ110系に置き換わっていますから、こちらの印象についても変化はありません。ただかつての小海線ホームには立ち食い蕎麦店がありましたから、無いだろうなとは思いつつもやはりその現実を知らされれば「ああ、変わったんだな」と認めざるを得ません。カラカラというアイドル音を背に蕎麦をすすった記憶は忘れ難きものです。
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小諸からはいよいよ14年振りの信越本線もとい「しなの鉄道」の人となります。件の跨線橋を越えて下り本線兼折り返し線の2・3番ホームへ移動します。信越本線時代の折り返し列車は方向に関わらず2番線着発だったと思うのですが、今は軽井沢方への折り返しに3番線も使われています。列車毎表示の市販時刻表を見ると、時間帯にもよりますが明らかに小諸で系統が分断されている印象があります。この点はやはり「しなの鉄道」化で大きく変わったところと言えましょうか。

その2・3番ホームには2番線に13:52発長野行、3番線に13:40発軽井沢行が乗車扱いで停車中です。
跨線橋の階段を下りて目に飛び込んでくるのは1本のホームを挟んで並ぶ同じ色の電車。そこで旅客が戸惑わないようにと画像のような行先札を掲げています。恐らくこれは発車までの限定的な表示と思われますが、かつて豊橋駅でなされていた飯田線車両(旧形国電)への行先・発車時刻の掲示をイメージさせるものがあります。これも発車までの限定表示でした。
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その2・3番ホームの中ほどには立ち食い蕎麦店が残っていました。これは嬉しい!しかしそんな事を事前に知る由も無かったので撮影に時間をかけすぎてしまい、残念ながら賞味には至りませんでした(涙 後になって撮影画像に写り込んだ品書きを見れば、何と「持込丼 三0円」とあり列車内への持ち込みも可能なようです。最近は地域にもよりますが、衛生上の観点から駅蕎麦類の車内持ち込みが不可と謳っているケースもありますので、このような昔ながらのサービスには思わずキュンとします。しなの鉄道の車内で駅蕎麦・・・最高です!
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軽井沢行の770Mはもとより長野行の649M、更に770Mへと連絡する小諸止の604Mに至るまで全てが115系ですから、塗色の違う事を除けば信越本線時代の香りが強く残ります。それでも車内に入れば目に飛び込んできた客扉上のCMモニターに、積極的なアイデア増収策に走らねばならない厳しい第三セクター鉄道としての実情がよぎるのです。ちなみに車内モニターと主要駅に設置してあるモニターは放映内容をシンクロさせているとか。このような115系が見られるのも恐らくここだけでしょう。
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いよいよ770Mは小諸を後にし軽井沢を目指します。乗車したのは編成真ん中のモハ114。車番は失念しましたが車内に雪切室のある115系耐寒仕様の完成型である1000番台です。車端部がロングシート化されている以外はオリジナルの座席配置を保ち、私にとってはおよそ懐かしい「電ノコ」の音色が響く車内空間に喝采の思いです。特に「電ノコ」こと主電動機の音色は出生前の胎児が耳にしているという「母胎回帰音」に近似のものとされ、その音色はまさに安眠を誘うものと以前からよく言われてきました。事実、かつては東海道線やスカ線が「電ノコ」であった頃の記憶を辿ってみても「騒音」であるはずの電ノコを不快に感じた事なぞ考えられず、また聞いたこともありません(これは騒音ではありませんが現在のE217やE231の横揺れは何にも増して酷く、今回乗車した115のコイルバネのほうがマシに思えました)。

小諸の次駅は平原。かつて信号所であったのが駅へと昇格した経緯がありますが、どことなく「信号所に毛の生えた」程度のひなびたイメージがあります。で、ここにはイマドキ珍しい?車掌車型待合室(笑 が現存しています。リベットの植え込まれたクラシカルな風貌からヨ3000あたりでしょうか。かつて貨物列車のシンガリを勤めた古老が、ダルマさんとなって浅間の懐深い地で余生を送る姿は何とも微笑ましいものです。
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平原を発てば次は御代田です。画像がなんじゃこりゃな状態ですが、左に見える上屋内にはD51787が保存されており、そしてその場所こそかつてスイッチバック時代にホームのあった構内なのです。御代田が軽井沢~長野間の電化によってスイッチバックを廃止したのが1963(昭38)年、横軽間のアプト式が粘着運転へと切り替わったのも同年ですからかつて親父が東京の親戚への旅行時に体験したのもそれより以前の時期だったのでしょう。ちなみにD51787は1971(昭46)年に木曽福島機関区を最後に廃車となっており、その履歴から信越本線に縁があったわけではないようです。
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御代田を出れば信濃追分。このあたりでは東信の母なる山・浅間が車窓の友となりますが今日は雲の動きが活発で今一つです。それとここ御代田~信濃追分間は国鉄時代の管理局境にあたり、御代田(以遠)は長野鉄道管理局、信濃追分(以遠)は高崎鉄道管理局となっていました。イメージ的には横軽間が管理局境に思われがちですが、意外な箇所に境があったのです。かつて中山道の宿場名を継承していた沓掛は今は中軽井沢と称し、避暑地軽井沢における玄関口の一翼を主張しています。事実中軽井沢では770Mに纏まった乗車がありましたから、新幹線乗換客が殆どと思えどそれなりの地位があるようです。

そして770Mは軽井沢到着。昔よりは側線が減ったものの、分岐器をクリアしながらホームに滑り込んでいく様は「峠越え」のイントロとして記憶に刻まれているそれそのものであり、嗚呼、願わくばこのままアタマにロクサンを連結して横軽を越えて欲しいと思わずにはいられないのです。しかし・・・そのような願望というよりは妄想の一欠片が叶うはずもなく、降り立ったホームから「上野方」を見やれば一面のブッシュと非情なる車止め。14年という月日はかつてロクサンが蝟集していた構内の残り香をまるで感じさせぬほどに変わり果てていたのです。
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こちらは15年前の1996(平8)年11月4日へとタイムスリップ!かつての上りホーム上野方の端から捉えた構内です。翌年に開業を控えた新幹線を背後に湛え変化を予感させられますが、油の染み込んだ構内で息を整えて待機するのはロクサン。ノンヒューズブレーカ投入時の甲高いエコーのブロアー音は構内にこだまし、到着した上り列車から吐き出された釜飯目当ての旅客でホームは賑わい、その傍らでロクサンは列車前頭部へとガッチリ連結されたのです。画像右に写る2号機は現在軽井沢構内で保存展示されていますが、やはりそれがプリントを通してであっても生きているカマには本当に独特のツヤがあります。それを思えば思うほど、臆病な私は現在の2号機を正視できないのです。
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しなの鉄道の軽井沢駅改札と窓口は行楽客であふれていたせいか手狭に見え、やはり「信越本線」ではなくなってしまった事を実感させられます。その改札を出た傍に「おぎのや」が立ち食い蕎麦店と釜飯のワゴンを出していましたが、その立地が少し離れた新幹線改札側でないあたり昔の営業権のままなのでしょうか。いやむしろ「おぎのや」は今や完全に鉄道ではなく自動車道における商いが基盤となっていますから、あえて新幹線側に恐らくそれなりであろうテナント料を払うまでもなく、あくまでオマケのように「しなの鉄道」側で細々と販売しているのかも知れません。とはいえ、私にとって「峠の釜飯」は最も付き合いの長い「駅弁」。この地に降りて賞味しない手はありません。そして口にするのも実に14年振りのことです。

それほどお腹は空いていませんでしたが、好物の炊き込みご飯とあって美味しく平らげてしまいます。その具材の布陣は一瞥した限りの変化はまるで見られず、好き嫌いのハッキリ分かれるアンズも健在です(私はどちらかというと苦手です)。附属のプラケースに詰まったわさび漬けは餓鬼の頃は親に丸投げしていましたが、それが今や私自身の胃袋に納まるのですから歳月は確実に経ちました。炊き込みご飯の風味自体は、昔はもちっと濃かったかなと思うも実はこんなものだったかな?と、14年のブランクによって真相の解明は阻まれてしまいます。しかし何より「美味しい」事はまるで変わっていなかったのです。

14年間に亘り意識半分・無意識半分に遠避けていた旧信越本線区間、百聞は一見にしかずの決意で接したその先にはかつてとは変わったものと変わらぬものがあり、その現実を今振り返ってみれば落胆よりは感激した部分の多い事に気付かされ、万物変化はあったとしてもその土地への愛あればこそ、きっと受け止められるのかも知れないということを教わった思いです。

近年は法要などでしか訪れる機会に無かった信州・佐久への往還は、今回の寄り道で「こんどは旅に来てみようか」と再来の希望を抱かせるほどにセンセーションなものとなりました。そして再来が叶った時にはもっともっと時間をかけて、「十州に囲われた豊穣なる大地・信州」の空気に触れたいと思います。
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by ar-2 | 2011-09-12 21:56 | 外出・旅行 | Comments(0)


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