赤い電車は白い線

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2011年 08月 07日

東武亀戸線・失われた中間駅を辿る(後編)

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前編に続き、亀戸水神駅から上り列車に乗車し小村井駅を目指します。隣駅の東あずま駅は1928(昭3)年の電化時に平井街道駅として設けられるも1945(昭20)年5月に廃止、後の1956(昭31)年5月に東あずま駅として同位置にて再開したという経緯があります。1945(昭20)年5月には平井街道駅の廃止のみならずに前述の北十間駅と後述の十間橋通駅の休止もなされていますが、これは東京大空襲において苛烈を極めた3月10日の下町空襲により再起不能とされたのがその因子とされています。後編ではその事を念頭に置きつつ残りの廃駅跡を辿ってみることとしましょう。



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亀戸水神駅から8565Fに乗車し小村井駅で下車します。本駅も1928(昭3)年の電化時に設けられた駅の一つですが、今日に至るまで休止や改称を経ることなく存続し続けています。そして私自身も、無論?ながら本駅で下車するのは初めての事です。
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小村井駅から曳舟方に進んで1つ目の踏切、その亀戸方に天神駅があったとされています。画像でもお判りの通り、確かに上下線の外側に如何にもな空き地が見えます。この天神駅ですが、1904(明37)年4月の亀戸線開業時に設けられるも翌年には早々に休止となってしまい、開業から4年後の1908(明41)年4月には廃止されています。ところが電化前の1925(大14)年9月にはどういう風の吹き回しか再開され、戦後1956(昭31)年10月の休止を経て翌1957(昭32)年5月の廃止まで存続しました。他の中間駅がことごとく下町空襲によって休廃止に追い込まれているのに対し、天神駅については終戦後10年も生き延びている事に目を奪われます。しかし、それが位置特定を困難にしているというか・・・ここでも「データと実見の齟齬」が出てしまったのです。
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★天神駅跡(凝定)
1904(明37)年4月 開業
1905(明38)年5月 休止
1908(明41)年4月 廃止
1925(大14)年9月 再開業
1956(昭31)年10月 再休止
1957(昭32)年5月 再廃止

画像はその踏切から小村井駅を望んだものですが、wikiのデータによれば小村井駅~天神駅間のキロ程は100Mとされています。ところが画像の通り・・・「100Mってレベルじゃねーだろ」という実際の地勢にまずアタマを抱えつつ、上下線外側に広がる空き地にはもっともらしい説得力を有している事実も見逃せなかったのです。しかしこの後訪れた十間橋通駅跡までの駅間キロ程はwikiによれば400Mとされているものの、実際の探索はもとより地形図上にあってもせいぜい「200M」です。そしてこの200Mの誤差分を小村井駅にシワ寄せすれば、天神駅までの駅間キロ程100Mというのも数字の上では収拾がつきます。
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で、戻ってみてその「小村井駅から100M」の地点付近で検証してみました。画像は手前が小村井駅で、奥が天神駅方です。右に見えるフェンスの外側は東武系の駐車場でして何だかクサいのですが、当然のように天神駅跡と思しき痕跡は見出せず、また軌道外側に見える礎石まがい?のモノは枕木のブツ切りですので、駅跡の遺構とはなりえないものでしょう。というわけで、北十間駅跡に続いて「凝定」という轍を踏んでしまったわけですが、これについては今後もアタマの隅に置きつつ機あらば探求して行きたいと思います。とはいえ、その「糸口」を掴むのが大変なんですけどね・・・。
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次なる目的地は十間橋通駅、1945(昭20)年5月20日に休止の後1958(昭33)年10月に廃止とされています。その駅名の由来となったであろう「十間橋通り」は画像の通り現存し、小村井駅から曳舟方に3つ目の踏切道がその当該となります。しかし、かつての十間橋通駅はそれより更に曳舟方に進んだ踏切道・・・即ち「キラキラ橘銀座通り」の延長上に位置しているのですが、この通りこそがかつての十間橋通りであったのだと言われています。
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★十間橋通駅跡
1928(昭3)年4月 開業
1945(昭20)年5月 休止
1958(昭33)年10月 廃止

その「キラキラ橘銀座通り」の延長上、即ち小村井駅から4つ目の踏切道の亀戸方に十間橋通駅跡があります。画像奥が亀戸方なので手前側が下り線ですが、バラスに埋もれかけのホーム支柱礎石が数基見えますでしょうか。私自身がweb上では確認し得なかった、十間橋通駅跡の明瞭なる痕跡を認めた感激の瞬間です。反対側の上り線側はというと、それらしい遺構は残念ながら確認できませんでした。
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★虎橋通駅跡
1928(昭3)年4月 開業
1945(昭20)年3月10日 廃止

次なるは小村井駅から曳舟方に8つ目・・・というよりは、曳舟から1つ目の踏切道と言うほうが判り易いでしょうか。虎橋通駅跡です。画像は遮断竿の外側の安全な場所での撮影ですので不自然?なフレーミングですが、踏切道の上に立てばその明瞭なホーム支柱の礎石を捉えられます。画像は奥が亀戸方で、やはり下り線側における遺構です。そしてここ虎橋通駅の歴史として欠くべからざるのは、まさに下町空襲のあった1945(昭20)年3月10日に「即日」で廃止されている事です。
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こちらはweb上では私は見た事のない同駅跡の上り線側の遺構・・・埋もれてはいますが礎石が確認できます。

かの下町空襲は、言わずもがな東京大空襲において最も苛烈を極め、まだ肌寒い頃の季節風によって煽られた焼夷弾の爆炎は墨東一帯を覆い、木造はおろかコンクリートによる建築物さえも例外なく焼き尽くし、筆舌尽くし難いほどの民間人が犠牲になったのです。亀戸線はというとその墨東地域の北側を走り、その惨禍によって虎橋通駅も命脈潰えたわけですが、同駅の北側に位置する「京島」地域はその下町空襲にあっても奇跡的に焼き残り、今日まで大正期~昭和初期にかけて築かれたと言われる木造建築や前時代的な狭隘極まる路地が張り巡らされているのです。
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出典:ウィキペディア「東京大空襲」

画像は下町空襲の前後を対照したものですが、右の空襲後の画像における上部、隅田川の右側に台形状に黒くなっているエリアが見えましょうか。これこそその焼け残った京島地域であり、亀戸線を境にして北側に位置しているのです。下町空襲における墨東地域の惨状については繰り返すまでもありませんが、それを考えると京島地域が焼け残ったのはまさに「奇跡」なのでしょう。しかし・・・それはひょっとしたら亀戸線がまさにデッド・ラインとなったのではないかとさえ思えてくるのです。

私がその真相を伺う事は叶いませんが、それでも「亀戸線」という路線が残り今日に至るまでその惨禍の残火を今も尚伝えている事実に、改めて認識を深めるとともに「伝えていくこと」の意味を噛み締めます。そして此度私が亀戸線における廃駅を辿った端緒こそそれであり、66年前の「8月」のみならずそれに関わる数多の事象を振り返り、そして忘れてはならないという一心に則ったものなのです。

ピーカンの虎橋通駅跡、「亀2号」踏切道に佇みながら青空の下に鉄道趣味に興じられる身の有り難さを感じます。翻って昨今、先の大震災によって我々の日常はある意味大きく変わりました。しかしその国難に憂慮している暇(いとま)はありません。命ある限り、邁進せねばならないのです。「明日」を迎えるために・・・。

(おわり)
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by ar-2 | 2011-08-07 22:15 | 鉄道廃線(廃駅)跡


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