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赤い電車は白い線

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2011年 05月 13日

PLAY BACK~あのとき何処で (2001・5・13)

本日は5月13日です。
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・2001(平13)年5月13日 尻手にて

国鉄通勤型電車のベストセラーというか代名詞そのものと言ってよい103。根岸線本郷台駅の近傍で生まれ育った私にとって、鉄道趣味における実車への興味を抱かせた存在であると同時に、身体の一部であったとも言える存在です。その103も東日本においては、1993(平5)年に価格半分・寿命半分の「10年電車」209の登場以降、急加速度的な淘汰がなされたのは周知の通りです。
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・2001(平13)年5月13日 府中本町にて

10年前の2001年といいますと、すでに大所帯の京浜東北筋に103の姿はありませんでしたが、常磐線にはまだE231が投入されておらず、南武線、鶴見線、川越線、武蔵野線、京葉線、仙石線においてもその姿をまだ認められました。故、103への稀少性というものが実車趣味界において広く認知され始めたのは、もっと後の事だったと思います。武蔵野と京葉におけるクモハ103は、ATS-P機器搭載に伴って運行灯が埋められ画像の通り野暮ったい顔付きとなっていたましたが、この顔のカラーバリエーションに実は青22号と朱色1号以外のモノが存在したのです。それは・・・
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・1993(平5)年3月29日 矢向にて

クモハ103-103において、カナリヤイエローこと黄5号の装いが存在したのです。103の転配自体は決して珍しいものではありませんが、このような外見的特徴を有すクルマが少なかった103においてはインパクトのある転配だったと思います。この撮影日の数日後には南武線においても209の営業運転が始まり、やがて他線区からの玉突き捻出で低運車は次第に置き換えられて行きましたから、まさに南武線における布陣の激変期寸前の頃だったわけです。

ちなみにクモハ103-103の簡単な履歴ですが、蒲田区に新製配置の後、青梅線の旧形国電置き換えのため豊田区へ転出。その後前述のようなATS-P機器搭載を経て、1992(平4)年6月8日付で中原区へと転出するまで朱色1号の装いであり続けました。蒲田区から豊田区へは青22号のまま転出しその出で立ちで営業運転に就いたそうですが、さすがに平成の御世となってからは仕事が丁寧になったのか黄5号が施され、ここに唯1両という「運行灯埋めのカナリヤ」が誕生したのです。しかしその姿が見られた期間は決して長くなく、翌1993(平5)年10月1日付でその生涯を終える事となりました。

私が意識して記録している通勤型電車はもはや201のみとなり、そしてそれはいよいよ風前の灯となっています。恐らく今後、記録に値するような通勤型電車はもう二度と現れて来ないでしょうけれど、「20M級4扉」という規格においてのみ、私はきっと103の「影」に触れそして想い続けていくことでしょう。

by ar-2 | 2011-05-13 23:05 | 記憶のレール(総合)


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