赤い電車は白い線

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2011年 03月 21日

セントラル・エスケイプ(1日目その3 リニア・鉄道館の印象~旧形国電)

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セントラル・エスケイプ(1日目その2 リニア・鉄道館の印象~急行形電車)に引き続き、車両の紹介です。サロ165-106の右隣に顔を並べたのはモハ63638、事前に公とされていた展示車両ラインナップのPDFにおいてはクモヤ90005とされていた個体ですが、収蔵展示にあたっては原車である63形への復原がなされています。



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63形は戦中の1944(昭19)年から戦後にかけ、資材欠乏の時勢にあって最大限の輸送力を確保すべく製造された車両でして、1951(昭26)年に発生した桜木町事故においてはその車体構造が被害を拡大させたという見解から有名になった存在でもあります。この63形における外観の特徴と言えばやはり側面の三段窓にあり、これは窓ガラスの節減と窓桟自体を多くする事による破損の防止、立客も窓の上段を開閉できるようにとの配慮などから設計されたものです。前記の桜木町事故においてはこの三段窓の致命的欠陥、即ち中段窓が固定であったことが問題視され、のちに73形へと改造の際には上中下段全ての部位が開閉するように改められたのです。
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73形へと生まれ変わった800両余りの車両は他系列からの編入や新造を含めて一大グループを形成し、その後の延命工事や車体更新を経て実に形式だけで見れば1985(昭60)年の仙石線アコモ車の新性能化まで生き永らえたのです。他にも事業用車への改造で民営化後まで残存した個体も幾つかあり、このモハ63638へと復原されたクモヤ90005もその内の1両にあたります。ちなみに形式・車番の変遷はモハ63638(1947)→モハ72258(1952・10)→クモヤ90005(1967・3)となっています。

復原されたその外観においては「へ」の字の水切りや前頭部幕板のルーバ、角筒型の避雷器、原型の客扉などが再現されています。前頭部はクモヤ90005のHゴム顔から一変していますが、キャンバス押さえ周りのグレーが新鮮です。この仕様があったのでしょうか。その製造時期からして残存資料に恵まれているとは思えない中にあって敢えて63形へと復原された意義は大きく、末永い収蔵展示を願うものです。
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こちらは鉄道省1形・モハ1035です。1922(大11)年にデハ33500形33509として登場し1928(昭3)年8月の車両称号規定変更で1形・モハ1035へと改められました。展示されている同車はこの時期を選んで復原・修復されています。モハ1035は首都圏での活躍の後、1938(昭13)年に飯田線の前身の一部である三信鉄道に譲渡されデ307となり、1943(昭18)年の強制買収による国有化(形式不変)を経て、1953(昭28)年に大井川鉄道へ再譲渡の上モハ301へ改められるという変転の歴史を辿っています。
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大井川鉄道での活躍は1970(昭45)年まで続き、その後は千頭駅構内で保管されました。とはいえ屋外での保管は野ざらし同然であり、私が20年ほど前に実見した折でもボロボロであったことを覚えています。そんな大井川モハ301が歴史的価値を見出したJR東海によって名古屋工場へ陸送で取り込まれたのが1994(平6)年11月。諸手配の後1996(平8)年に復原工事が開始され翌年にお披露目となりました。

復原にあたっては当然のように部品の欠損や資料不足がついてまわり、モハ1035とて例外ではなかったものの調達が難しいとされていた汽笛(AW1)やパンタグラフ(PS2)については、大井川鉄道と豊橋鉄道から寄贈されたという経緯があります。このように関係各所の尽力によって青春の姿を取り戻したモハ1035ですが、伊那松島でのイベントで姿を見せる機会が幾度かあったものの、ファン向けイベントがなされなくなって以後は同所の保管庫での収容が永らく続き、今回目出度く常設展示の上公開されることになったのです。
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そして言わずもがなの有名どころ、「流電」ことモハ52004です。
かつて京阪神を駆けた関西急電の華は晩年を飯田線で過ごし、このモハ52004は引退後地元の日本車輛豊川工場における保存展示を経、1991(平3)年に飯田線中部天竜駅構内にオープンした「佐久間レールパーク」の展示車両として抜擢、公開に至りました。暫くは最晩年の姿を保っていましたが、後にスカートを装備し関西急電色を纏うという登場時を意識した改修がなされたものの、後天的改造により生まれた乗務員室扉やグロベン、プレスドアはそのままといった全く理解に苦しむ出で立ちとなってしまい、失われた最晩年の姿が引き合いとされながらもその中途半端極まりない「小細工」には多くの落胆が寄せられたと聞きます。
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しかし今回、本館での公開にあたっては今一度の改修がなされ、乗務員室扉は埋設の上側窓が開け直され、グロベンは広窓流電の仕様である1列ガラベンへ取替え、プレスドアは中桟窓を有す軽合金製(木製ではない筈です)へと交換、全長に亘る雨樋と縦樋は消え水切りに変更、側面の急行板挿しと行先表示窓も甦るなどレールパーク時代の情けない姿から一転、青春の姿へと徹底的に復原されたのです。しかし、唯一惜しむらくはパンタがPS11ではなくPS13のままであること!調達は難しいでしょうが、今後の改修に期待したいところです。
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続いてはクモハ12041。クモヤ22112からの再改造による旅客車化後は飯田線において多客臨、団体運用に幅広く活躍しました。クモハ12といいますと1996(平8)年3月に引退した鶴見線の12052、12053が有名どころですが、この12041は「旧30系」グループと呼ばれる二重屋根を有す省電初の半鋼製電車がその出自です。製造年では12052が1929(昭4)、12053が1931(昭6)であるのに対し12041は1927(昭2)と古参であり、旧30系グループ独特の腰高にある天地寸法の狭い側窓を有すビジュアルを伝える数少ない存在です。ちなみに現存する旧30系グループの個体は小金井市日酸公園のクモエ21001、幡生工のクモハ11117とこの12041の3両です。
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旅客車化に際して12041という一見規則性の無さそうな付番がなされたのには理由があり、旧30系グループ出自のクモハ12として12040というナンバーが以前に存在したからなのです(1982年廃車)。これはごく当然な事にも思えますが、時間的空白があるにも関わらず続番として順当な処理のなされた事に改めて感心してしまいます。この12041の来歴について以下要約しますと・・・

・1927(昭2) デハ73200形73331として誕生、片運転台・二重屋根
・1928(昭3) 車両称号規定改正によりモハ30131へ改番、旧30系グループの由縁はここから
・1953(昭28) 車両称号規定改正によりモハ11047へ改番
・1954(昭29) 中間電動車化されモハ10016へ改番、同時に丸屋根化
・1964(昭39) 事業用牽引車クモヤ22112へ改造、両運転台化
・1987(昭62) 旅客車化によりクモハ12041へ改番
・2002(平14) 廃車

製造されてから実に80年余り、廃車後は伊那松島での留置が暫く続いてその去就が心配されたものの、ようやく安住の地を得た格好です。12041が他のモハ63638、モハ1035、モハ52004のような原型への復原がなされないのは、二重屋根化などの手間もありましょうがやはり最終的には「バランス」をとったのではと私は解釈しています。無論、このような最終形態での保存展示もあって然るべきでしょう。

同じ「旧きもの」でありながら、社会的な認知度の高い事と「郷愁」の対象としても捉えられるSLと、そうでない旧国とでは保存に関わる境遇に雲泥の差があると言ってよく、それは鉄道事業者の手で折角保管・保存してきた旧国が解体される事例が相次いだ事からも窺えます。尤もこれはSLが良質な金属を用いて造られているのと比べれば、半鋼製車体が大半を占める旧国のほうが長期的な維持が難しく思え、その処遇判断もある程度は止むを得ないのかも知れません。故、此度「リニア・鉄道館」に4両もの旧国が収蔵された意義は殊の外大きく、残された旧国が1両でも多く後世までその姿を保ち、アイデンティティを伝えて行ける事を切に祈りたいと思います。

セントラル・エスケイプ(1日目その4 リニア・鉄道館を後に桑名へ)に続く。
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by ar-2 | 2011-03-21 22:56 | 保存車両を訪ねて


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