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赤い電車は白い線

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2010年 06月 09日

相模線回顧録~嗚呼、キハ30よ永遠に

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1/150における「戯れ」もそこそこに、今回は電化目前の頃の相模線を当時のプリントと共に振り返りたいと思います。なお、記事中における履歴や諸元については鉄道ピクトリアル誌742号(2004年2月号「キハ35・45系特集」)に依った部分もあります。また列車番号等の記録は当時のメモに依るものです。ミスや思い違いもあり得るのでご承知おき下さい。

※記事中における「キハ30」というのは、形式個体としての言い回しの他にキハ35・36を包含した表現としても用いています。



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:1991(平成3)・3・15 茅ヶ崎にて 371D海老名行 キハ35 170他

撮影年月日が前後しますが、まずは非電化最終日のカットから紹介しましょう。時は1991(平成3)年3月15日の金曜日、当時の私は厨学生でした。今にして思えば何故金曜日に撮影・・・とも思ったのですが、多分もう春休みだったんだと思います。学校サボってまで撮った覚えはありませんので(笑 キハ30の活躍もいよいよ見納めということではありましたが、流石に春休み中とは言え平日ということもあってかセレモニーの類は記憶に無く、撮影に興じるファンも現在に比べれば少なく地味な非電化最終日だったように思えます。ま、昨今のお祭り騒ぎが異常と言えばそれまでですが・・・。
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:1991(平成3)・3・15 香川~寒川にて 377D橋本行 キハ35 158他

当時の居住地本郷台から近傍に位置していたとは言え、中学生の分際ではそう頻繁に訪問することは叶いませんでしたが、その機会が少なかったからこそ常にフィルムのコマをカウントしながらシャッターを切り、ロケハンも中学生なりに真剣に行ったのです。もちろん「足代」からしてその運べる範囲も限られ、非電化時代の記憶ではせいぜい茅ヶ崎から倉見までです。その限られたエリアで満足に被写体を捉えることは難しかったでしょうが、寒川から10分程茅ヶ崎方に戻った界隈は当時のお気に入りでした。画像は同区間の小出川(多分)を渡る鉄橋を行く2連です。明日から全列車が倍の4連になるだなんて、にわかには信じられませんでした。
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:1991(平成3)・3・15 寒川~香川にて 370D茅ヶ崎行 キハ30 25他

同じ場所の反対側からの撮影です。露出が飛んでいて見苦しいことこの上無いカットですが、先頭のキハ30 25の前頭部にご注目。助士側にスリット状のタイフォンカバーのようなものが見えますが、これが北陸配置車における「汽笛増設」施工車なのです。これは冬季における雪の吹き込みによって汽笛が不鳴動となることを防ぐ為、前面上部にシャッター付の汽笛が増設されたものです。施工対象車は福井機関区(越美北線運用)と高岡機関区(城端・氷見線運用)に配置されていたキハ30形2両とキハ35形9両の計11両で、施工時期は1968(昭和43)~1970(昭和45)年に及びました。これらの施工車のうちキハ30形の2両(25・26)が揃って電化直前の相模線に居たことは特筆され、画像の見苦しさを承知で紹介した次第です。なお、シャッターは転属時に撤去された様子です。
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:1992(平成4)・5・3 八王子にて キハ30 26他

こちらは相模線における記録ではありませんが、もう1両のキハ30形「汽笛増設」施工車のキハ30 26、八高線転入後のカットです。相模線の電化によって捻出されたキハ30の一部が八高線へ流れたことは周知の事実ですが、こんな珍車もさりげなく活躍していました。前面字幕部の「紙貼り」の普通表示は、相模線時代の字幕にそのコマが無かったことの証左でもあり、また八高線においてもそう永く使うつもりのなかった意図も伺えましょう。ちなみにピク誌における履歴表においてキハ30 26は「1992・5・1」廃車となっていますが、これは当時の記録からも誤りです。また同じく最終配置が茅ヶ崎となっていますが、これについては高崎への「正式転属」というソースが確認できず、恐らく茅ヶ崎所属のまま「貸し出し」というスタイルをとっていたのではと思います。ちなみに25番は相模線電化後に関東鉄道に譲渡されています。
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:1991(平成3)・3・15 宮山~寒川にて 376D茅ヶ崎行 キハ35 163+キハ35 904(後打ち)

さて、場面を相模線に戻しましょう。画像は当線きっての珍車中の珍車、キハ35 904です。キハ35形900番台は言わずもがなのステンレスボディを有し、東急車輛で製造された10両全てが千葉気動車区に新製配置されました。文字通りの「異色」っぷりはバラエティーに富んだ同区の布陣にあっても極めて目立ち、これぞ「気動車王国の象徴」とも捉えられました。その後房総半島における電化の進捗によって転出を余儀なくされ、これまた10両揃って八高線へと転出して行ったのです。転入当初は無塗装車体に警戒帯の装いでしたが後に首都圏色化され、この時の姿で901番が文化むらに保存されているのは余りにも有名。残りの9両はというと民営化前後で運命が分かれていますが、このうち904番だけが何故か茅ヶ崎区に流れてきたのです。

この904番が結果的にキハ35形900番台の掉尾を飾ったわけですが、それまでと全くイメージの異なるクリームに青帯というビジュアルは「額縁付き」のフロントマスクとも相俟ってさぞや珍奇なものとして映ったことでしょう。その904番と私との相性ですが決して良いとは言えず、運用されている場面に遭遇できても3連の真ん中に挟まっているか、そうでないときは茅ヶ崎区での寝姿の横っ腹を眺めるだけでした。それが非電化最終日という後が無いこの日、西寒川支線の廃線跡でファインダー越しに飛び込んできた376Dの後部に連なるコルゲーションのカタマリに、私の魂は射抜かれました。

「やっと顔を出してくれた・・・」

感慨無量。今でも私にとってキハ35の900番台といえば、この904番。非電化最終日のビッグプレゼントは一瞬で走り去って行きました。
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:1991(平成3)・3・15 寒川にて 378D茅ヶ崎行 キハ30 505他

非電化最終日でありながらセレモニーの類の無かったことは先に記しましたが、それでもヘッドマークによる「お化粧」はなされました。画像は帰路の茅ヶ崎行でやって来た378Dですが、この他に緑色ベースのヘッドマークを取り付けたクルマもあったようです。画像の505番ですが言わずもがなの雪国育ちの寒地向け車両。スノープロウは当然ながら撤去されていますが、屋上の箱型通風器が同番台の個性を最高にアピールしています。ちなみに1/150ネタですが、モデモのキハ30は通風器が選択式でして、私も以前に入手したキハ30形式の相模線色では喜んで箱型をセレクトしました!今となっては、編成で欲しい気もしますが・・・。
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:1991(平成3)・3・15 茅ヶ崎にて 378D到着後 キハ30 505他

同列車の茅ヶ崎到着後のカットですが、恐らく必死こいてヘッドマークを撮ろうとしたんだと思います。停止位置がホーム端スレスレでしたから・・・で、こんな角度だからこそですが、前面補強板の上面部も青く塗られているのが判ると思います。模型化にあたっての資料ぐらいには・・・っても1/150ではあまり用をなすとは思えませんね(汗 そしてこのヘッドマーク付き編成ですが、折り返さず何と茅ヶ崎区に入区してしまいました。もうサービスとか関係無いんですね(笑 尤も、それがあくまでも日常の「1日」に過ぎないのであるというか、相模線らしいというか・・・記録できただけラッキーでした。
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:1991(平成3)・3・15  茅ヶ崎にて 387D

これは別編成ですが、東海道線のホームから捉えた3連です。いまはこの視界にライナーホームがあるんですよね・・・時代は変わりました。キハ30とお揃いの衣装を纏った跨線橋もとってもオシャレです!
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:1991(平成3)・1・6 寒川~香川にて 348D茅ヶ崎行

こちらはやや遡って新春の記録です。どこか開けたポイントは無いものかと車中からロケハンし、ここにアタリをつけました。冬の日・・・大気の澄んだ空はクッキリと丹沢の連なる山並みを映し出し、去り行く気動車との絡みという最高の演出をもたらしました。その時の感激はいかばかりだったか・・・ちなみに電化後2日目の3月17日の同じ場所、205系のバックは雲に覆われ何も見えませんでした。バックで建設の進むマンション?や真新しいコンクリートポールの居並ぶシチュエーションは、永らく「ローカル線」のイメージが焼きついていた相模線にも確実に変化の波の押し寄せていることを実感するものでした。あれから19年・・・この田園は今も健在でしょうか。
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:1991(平成3)・2・3 茅ヶ崎にて キハ35 100他

日も暮れかけた茅ヶ崎、ブレーキハンドルを携えた運転士サンが乗り込もうというシーンです。電化まであと一ヶ月という頃ですが、撮影に興じているファンを見かけた記憶はあまりありません。それだけ、やはりキハ30は地味な存在だったということなのでしょうか。キハ28と同様の足回りを有しながらも、通勤型という位置付けから「電化見込みのある」線区におけるワンポイントリリーフ的存在であったことも地味さ加減に拍車をかけていたようにも思えますが、それこそキハ30の本分であり、ある意味使命を全うした形式なのではないでしょうか。
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:1991(平成3)・2・3 北茅ヶ崎にて (左)384D茅ヶ崎行 キハ35 170他 (右)393D 海老名行 キハ35 519他

既に架線も張られ、増設上屋の工事の進捗も見て取れる日没間近の北茅ヶ崎。2連の気動車が頼りなげな外吊り扉を開け閉めし、ゴロゴロと唸りを上げていた時代はげに遠くなりにけり、今や相模線のキハ30は郷愁の気動車として記憶に残るのみです。

「ご乗車ありがとうございました・・・間もなく茅ヶ崎、茅ヶ崎です。乗り換えの東海道線をご案内します・・・」

R1の「相鉄橋」をアンダーパスしながら切通しで風を切り、右カーブで回り込み始めればもう終着駅。それまでの単線のロケーションから、視界がパッと開けて複線の「幹線」が飛び込んでくる様はまさにローカル線のそれでした。そしてその刹那、何故か妙どころホッとしたのも事実です。やはり近傍にあっても相模線は「非日常的」なローカル線だったのでしょうか・・・。

いま、久留里線でキハ30形の最後の3両の仲間が活躍しています。このうちキハ30 62は勝浦機関区に新製配置の後、千葉気動車区配置を経て相模線にも籍を置き、電化後に何と再び房総に舞い戻るという幸運の持ち主です。この62番を含めた98、100の各車両においても、一日も永く活躍することを心より祈ります。「通勤型気動車」に託した想いの拙文、最後までお付き合いいただき有難うございました。

by ar-2 | 2010-06-09 22:30 | 記憶のレール(国鉄~JR)


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